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真田家
真田幸隆 さなだ ゆきたか (1513~1574) 真田家
信濃の土豪。「攻め弾正」の異名をもつ武田信玄の参謀。はじめは信玄の父・信虎や村上義清と対立。海野平の戦いで敗れて所領を失い、上野の山内上杉家重臣・長野業正を頼った。山内上杉家が河越夜戦で大敗を喫して没落すると、父を追放して武田家当主となっていた信玄に仕える。仕えたいきさつには自ら売り込んだとも信玄の軍師・山本勘助の推挙があったともいわれる。はじめはあまり重用されなかったが、信玄が「砥石崩れ」と呼ばれるほどの大敗を喫した砥石城を謀略をもって一日で落とし信頼を獲得した。その後は信濃先方衆筆頭として、第四次川中島の戦いや西上野侵攻などで活躍する。西上作戦は老齢のため参加せず、嫡男・信綱、次男・昌輝を従軍させ、自身は北信濃、上州方面の抑えとして残った。信玄が亡くなった翌年に病没。
真田信綱 さなだ のぶつな (1537~1575) 真田家
幸隆の嫡男。武田信玄、勝頼の二代に仕え、武田二十四将のひとりにも数えられている。父に従い第四次川中島の戦いや西上野侵攻戦に従軍。1567年に父が隠居すると信濃先方衆の筆頭として、駿河侵攻戦、三増峠の戦い、西上作戦などでも活躍した。父の死後、正式に家督を継ぐが、長篠の戦いで陣太刀・青江貞次を振るって奮戦するも討死した。首は着ていた陣羽織に包まれて近習たちが持ち帰り、「血染めの陣羽織」として残っている。
真田昌輝 さなだ まさてる (1543~1575) 真田家
幸隆の次男。武田二十四将のひとり。信濃先方衆の副将格として兄・信綱と共に行動することが多かったが、武田信玄より別家をたてることを許され単独での武功もあったという。兄と共に駿河侵攻戦、三増峠の戦い、西上作戦などで活躍したが、長篠の戦いで討死した。子・信正は甲州征伐後に徳川家臣となり、最終的には越前松平家臣となった。
真田昌幸 さなだ まさゆき (1547~1611) 真田家
幸隆の三男。「表裏比興の者」と評された謀将で、武田信玄にも「わが両目の如き」とまで評された。7歳のときに人質として甲斐に下り信玄の奥近習として仕えはじめる。その後、信玄の母方の家系である武藤家の養子となり、名を武藤喜兵衛と変えて足軽大将をつとめていたが、兄である信綱、昌輝両名が長篠の戦いで討死すると、真田家に戻って家督を継いだ。織田、徳川両家による甲州征伐によって武田家が滅ぶと、織田、北条、上杉、徳川、豊臣と主家を次々と変えて生き残りを図り、その途上で徳川家康を上田城の戦いで破る戦功をあげている。関ヶ原の戦いでは西軍に属して徳川秀忠率いる3万8千の軍勢を上田城で足止めする活躍をしたが、本戦で西軍が敗北したため、次男・幸村と共に紀伊九度山に蟄居となり、旧領復帰が叶わないまま同地で病没した。
真田信尹 さなだ のぶただ (1547?~1632) 真田家
幸隆の四男。兄・昌幸と同い年であることから双子という説や母が側室という説がある。幼年期に昌幸と共に甲斐へ人質に出され名門・加津野家の名跡を継いだ。信玄に従って参戦した駿河深沢城攻めで抜群の戦功があり、守将であった北条家の猛将・北条綱成の「黄八幡」の旗指物を奪ったという。武田家滅亡後に真田姓に復して徳川家に仕え、昌幸と徳川家の間を取り持った。一時、蒲生氏郷に仕えることもあったが、徳川家に帰参して関ヶ原の戦い、大坂の陣では御使番として活躍した。子孫は旗本として幕府に仕えた。
真田信幸 さなだ のぶゆき (1566~1658) 真田家
昌幸の嫡男。正室は本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)。父・昌幸が徳川家康と対立して上田城攻めにあった時には、支城である砥石城に詰め、徳川軍撃退に貢献した。小田原征伐後、沼田が真田領となると沼田城主になる。関ヶ原の戦いでは昌幸、弟・幸村とは袂を分かち東軍に属した。東軍の勝利後は沼田に加えて父の旧領・上田も与えられ、9万5千石で初代上田藩主となる。しかし、上田城は破却を命じられたため本拠は沼田城とした。昌幸と幸村の処遇については義父・本多忠勝と共に助命嘆願に奔走、その甲斐あって、ふたりは助命され紀伊九度山への蟄居となった。大坂の陣には病のため出陣できず、代わりに子の信吉、信政を参陣させている。1622年に松代13万石に加増転封となり初代松代藩主となる。晩年には後継者争いが起こるなど生涯苦労が絶えなかったが、それらを無事収拾して93歳の天寿を全うした。
真田信吉 さなだ のぶよし (1595~1635) 真田家
信幸の長男。母は側室・清音院殿(真田信綱の娘)。正室は幕府の老中、大老をつとめた酒井忠世の娘・松仙院。1614年、病の父に代わって弟・信政と共に大坂の陣に参加した。大坂の陣後、信之(信幸)が政庁を上田に移すと、分領として沼田3万石を与えられ沼田城主なるが、父に先立ち40歳の若さで病没した。
真田信政 さなだ のぶまさ (1597~1658) 真田家
信幸の次男。母は正室・稲姫(本多忠勝の娘)。1614年、病の父に代わって兄・信吉と共に大坂の陣に参加した。信之(信幸)が松代藩13万石に加増転封となると松代領内に1万7千石を分知され大名に列する。1656年に長年願い出ていた信之(信幸)の隠居がようやく幕府に認められ家督を継ぐが、わずか2年後に病没した。家督は幼少であった六男・右衛門(のちの幸道)を、まだ存命であった信之(信幸)が後見することで認められた。
真田幸村 さなだ ゆきむら (1567~1615) 真田家
昌幸の次男。大坂城五人衆のひとり。本名は信繁とも伝わる。正室は大谷吉継の娘・竹林院。青年期は父・昌幸の政策によって滝川一益、上杉景勝、豊臣秀吉のもとで人質生活を送ったが、景勝と秀吉には厚遇され、秀吉の元では馬廻衆をつとめた。関ヶ原の戦いでは父・昌幸に従って西軍に属し、上田城で徳川秀忠率いる3万8千の軍勢を足止めする手助けをした。しかし、本戦で西軍が敗北したため、戦後は昌幸と共に紀伊九度山に蟄居となった。1614年、徳川家と豊臣家の対立が深まると、豊臣秀頼の求めに応じて大坂の陣に参加する。冬の陣では大坂城の弱点に出城・真田丸を築いて大いに活躍したが、夏の陣では一歩及ばず、徳川家康に切腹を覚悟させるほどの猛攻を見せながらも討死した。その勇猛な戦いぶりは「真田日本一の兵」と称された。
真田大助 さなだ だいすけ (1600~1615) 真田家
幸村の嫡男。母は正室・竹林院(大谷吉継の娘)。諱は幸昌。幸村の蟄居先・紀伊九度山で生まれた。1614年、父に従って九度山を脱出し、大坂の冬の陣・夏の陣に参加するが、最後は大坂城内で豊臣秀頼と共に自害した。
矢沢頼綱 やざわ よりつな (1518~1597) 真田家
真田家臣。真田幸隆の弟。矢沢家は、真田家と領地が接していることもあって敵対関係にあったが、頼綱が養子となったことで対立は解消した。しかし、真田の家臣となったわけではなく、一領主として真田家とは対等な立場で行動した。海野平の戦いで、武田信虎、村上義清らに敗北すると信虎の配下となる。その後、武田家が代替わりをして信玄が当主となると、信濃先方衆筆頭となった兄・幸隆に従って活躍した。兄の死後は信綱、信綱が長篠の戦いで討死すると昌幸に従った。武田家滅亡後は、正式に真田家臣となり、沼田城攻略で活躍。その功で沼田城代となり、その後、度々攻めてくる北条家から城を守り切った。
矢沢頼康 やざわ よりやす (1553~1625) 真田家
真田家臣。頼綱の嫡男。通称は三十郎。真田幸村が上杉景勝の人質となったときには警護役として随伴した。その後、父の隠居により家督を継ぎ、沼田城代となる。関ヶ原の戦いでは東軍に属した信幸に従った。大坂の陣では、病にかかった信之(信幸)の代わって出陣することになった信之の子、信吉・信政兄弟の後見をつとめる。信之や信之の正室・稲姫(小松姫)の信頼厚く、矢沢家は代々松代藩・真田家の筆頭家老をつとめた。
出浦盛清 いでうら もりきよ (1546~1623) 真田家
信濃埴科郡の土豪。昌相など別の名でも伝わる。武田信玄、勝頼に仕え、武田家が滅ぶと森長可に仕えた。本能寺の変後に長可が信濃より撤退すると、真田昌幸に仕える。吾妻忍衆を統率して、忍城攻めなどで活躍したといわれる。関ヶ原の戦い後は信之(信幸)に仕え、松代藩の忍者頭領となった。
小山田茂誠 おやまだ しげまさ (1561?~1637) 真田家
真田家臣。武田勝頼を裏切った小山田信茂の一族。正室は真田昌幸の娘。小山田一門として活動していたが、武田家が滅亡して信茂が処刑されると北条家に仕えた。北条家滅亡後に真田家臣となる。関ヶ原の戦い後は信之(信幸)に仕え、大坂の陣にも参加した。子孫は代々、松代藩の次席家老をつとめた。
河原綱家 かわはら つないえ (1556~1634) 真田家
真田家臣。河原家は真田幸隆の正室の実家。兄たちが真田信綱・昌輝兄弟に従って参戦した長篠の戦で共に討死したため家督を継ぐ。武田家滅亡時や関ヶ原の戦いで、昌幸の正室・山手殿の護衛や救出で活躍した。関ヶ原の戦い直前、昌幸・信幸・幸村の密談を覗き見して下駄を投げつけられ、前歯を折ったという逸話が残る。
鈴木重則 すずき しげのり (1547~1589) 真田家
真田家臣。通称・主水。上野国・名胡桃城を預かっていたが、北条家臣・猪熊邦憲の謀略にはまって城を奪われ自害した。この事件が豊臣秀吉の出した惣無事令に違反したとして小田原征伐の口実を与えることになった。
高梨内記 たかなし ないき (?~1615) 真田家
真田家臣。実名は不詳。娘は幸村の側室といわれる。関ヶ原の戦い後、昌幸・幸村親子が紀伊九度山に蟄居となると、それに従った。昌幸死後も幸村に従い、大阪夏の陣で討死した。
堀田興重 ほった おきしげ (?~1615) 真田家
真田家臣。通称は作兵衛。妹は幸村の側室となり娘・阿菊を産んだ。関ヶ原の戦い後は上田に残って信之(信幸)に仕えた。1614年、幸村が九度山を脱出して大坂城に入ると、養女としていた阿菊を石合十蔵に嫁がせて、幸村のもとに馳せ参じ、大阪夏の陣で討死した。